横浜地方裁判所 昭和48年(タ)166号 判決 1976年7月23日
原告(反訴被告)
甲野花子(仮名)
右訴訟代理人
渡辺道子
被告(反訴原告)
乙野次郎(仮名)
被告
乙野月子(仮名)
右両名訴訟代理人
阿比留進
主文
一 昭和四七年一〇月二三日東京都品川区長宛届出にかかる原告と被告乙野次郎との協議離婚は無効であることを確認する。
二 昭和四七年一一月二四日東京都品川区長宛届出にかかる被告乙野次郎と被告乙野月子との婚姻は、これを取消す。
三 反訴原告の請求を棄却する。
四 訴訟費用は、本訴反訴を通じ、被告(反訴原告)乙野次郎および被告乙野月子の連帯負担とする。
事実《省略》
理由
一<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
1 原告は、明治四三年九月二八日、宮城県<以下省略>において、訴外甲野一郎、同はる<仮名>の五女として、被告次郎は、大正三年四月一日、東京府<以下省略>において訴外亡乙野茂、同なつ<仮名>の三男として、それぞれ出生したが、原告は、東京の甲女学校高等師範部裁縫科卒業後、<勤務先省略>に勤務し、昭和一〇年同じ職場に勤務していた被告次郎と知り合い、交際の後、昭和一一年一二月、<媒酌人名省略>を媒酌人とし、原告側は原告の姉甲山はなよ、同甲川あきよ、同女の夫甲川一郎<仮名>(原告の両親は南洋トラツク島に居住し、原告は末娘であつた)、被告側は被告次郎の兄乙野太郎<仮名>ら、双方とも兄弟らのみ出席のもとに(被告次郎にも母がいたが)、大森において簡単な披露の席を設けただけで、そのころ大田区馬込にて同棲生活に入つた。
2 原告および被告次郎の夫婦は、その後荏原区<町名省略>にある前記甲川一郎の持家を賃借して、ここに住居を構えたが、甲川夫婦が利にさといところがあり、被告次郎は性格的に嫌つて親戚として和合できず、しかも原告ともども失業して、家賃を支払うことができず追い立てられたこと、それまで被告次郎の兄の家にいた被告の母なつが被告側のアメリカ在住の親戚の子である精薄児を引取つて世話し被告次郎夫婦と同居の必要を生じたこと等の理由から、昭和一二年暮、同じ町の他の家に転居したが、被告次郎は、甲川夫婦と附合いを続ける原告に対し快からず、甲川夫婦と手を切るよう求めた。失業中の被告次郎は、無線通信士の資格を取るため昭和一三年一〇月ころ無線通信講習所に選科生として入学し、朝鮮において受験する予定で、アルバイトや兄乙野太郎の友人等から借財するなど苦しい中を、原告は、乙家政高等女学校に嘱託として勤務して和裁を教え、夫の受験のための費用をも支弁し、夫婦の生活を維持した結果、被告次郎は、無線通信士の資格を取得して、昭和一四年七月二一日、汽船会社に就職し、このころ、原告は、乙家政高等女学校嘱託の職を退いて特技の裁縫による賃仕事をして生計を維持し続け、家政に専念し、また、被告次郎が連れてきた無線講習所の学生二、三名を下宿させたり、原告の姪(丙野春子、丙山夏子、丙川秋子<仮名>)をも下宿させ世話をした。
昭和一六年ころ被告次郎は、丙株式会社に職を変え、タンカーに乗船勤務し、同年一二月以降は、兵藉に準じた海員生活を送ることとなつた。一方、原告の親や兄がトラツク島から引き揚げて、前記甲川の家に身を寄せたが、原告は交際が狭く、親や兄姉の他に頼る者のないため、夫の意に反しながらこれらの身内とはよく往き来し、また被告次郎が自宅に持ち帰つた物資を物々交換して生活を維持し、夫の留守を守つていた。
3 この間において、両名の関係は、時に夫婦喧嘩はあつても比較的円満で、とりたててどうということもなかつたにかかわらず、被告次郎は、原告の親戚に対し反情を持ち、原告の度々の婚姻届出の求めに応ぜず、原告は、東北生れの古風な正直者であつた上、同居の姑なつが丙高女出身の知識人であつて、事実上の強い発言権を持つており、戦前における嫁としての立場上、余り強く届出を求めることができないでいた。
しかし、昭和一八年一〇月六日、夫婦間に長女冬子<仮名>が出生するに至つて、原告としては、なつに対しても被告次郎に対してもなおも取りつく島もなくていたが、当時乗船を離れて上陸し、在宅していた被告次郎に対し母親のなつが、「早く婚姻届出をしないと、生まれた子が庶子とされるのでかわいそうではないか」と説いた。これに対し、同人は、婚姻届出に同意しないまま処置を母親に委せた形で海上勤務に就いた。しかしなつは、冬子を庶子として届け出るに忍びなく、被告次郎の兄乙野太郎と相談の上、乙野太郎およびその知人乙田五郎<仮名>の両名を証人とするなどして、昭和一八年一一月一日、東京都品川区長に婚姻届出をし、同月六日、冬子の出生届出を同区長にした。
原告としては、当時、被告次郎が承知したのでなつが届出したものと考えており、被告次郎においては、後に昭和一九年になつて、夫婦喧嘩の末、兄の乙野太郎に確かめて右届出の事実を知つたが、太郎に対し届出に文句をいいながらも、結局、母親なつにあやまられた格好で、同女のなした届出を黙認した。
昭和一九年六月、原告は、門司港から戦地に出航する被告次郎から冬子を伴つて来るよう知らせを受け、生後八か月の冬子を伴つて門司に赴き、同月下旬の出港まで一週間滞在し、夫婦関係は、円満であつた。(昭和二〇年三月一八日には、長男三郎<仮名>が出生した。)
被告次郎は、母親なつのなした婚姻届出を原告に対しても追認したものと認めるのが相当である。
4 被告次郎は、昭和一九年八月、乗船していたタンカーが敵の攻撃を受けて大破し、同年九月には比島において船団が全滅し、救われて、負傷した船長とともに台湾高尾に滞在することとなつた際、同地の宿泊所において勤務して遭難者の世話をしていた被告月子(旧姓乙山<仮名>)と親しい間柄となり、同年一一月船便を得て一緒に帰還し、帰宅の直後発病して、約一か月間病院に入院したが、その間に、原告は被告次郎の服のポケツトに女性の写真を発見する一方、原告に対し急に冷くあたるようになり、退院後は、ささいなことに怒り、原告に対し、殴る、蹴るなどの暴力を振うようになつた。
被告次郎は、同年一二月、各地の空襲激化を理由に、当時長男三郎を妊娠中の原告を、独りで宮城県の実家に疎開させ、その際、生後一年二月の冬子を連れて行きたいという原告の懇願を母親なつと共に却け、無情にも東京に残させ、以後、冬子は、なつが養育することとなり、原告に対しては音信もせず、生活費も送らなかつた。
しかも、その後、昭和二〇年二月ころ、被告次郎宅に下宿していた原告の姪丙山夏子からの私信により、原告は、被告次郎の許に女性(被告月子であつた)が出入りしていることや、被告次郎が丁の居宅から強制疎開によつて戍のアパートに移つたあと、旧居宅に原告のタンスなどを残置してあることを知り、夜も眠れずノイローゼとなり、二月末ころ、臨月中の身体をもつて、見かねた高齢の父甲野一郎に伴われながら、上京したところ、被告次郎と一郎との間で「原告を離婚するから引き取れ」「理由なしに引き取ることはできない」と相当激しい口争いがなされ、話合いはつかず、(原告はそのとき被告次郎に向つて「一緒に居てやるものか」と叫んだが、離婚の意思表明とは解せられない。)なつは冬子を原告に引き渡すまいと連れて逃げ出し、原告は半狂乱で裸足で追いかけたが身重のため果たさなかつた。その後、原告は、そのまま東京に滞在して、翌月の三月一八日、甲医大附属病院において長男三郎を出産し、やがて三郎とともに実家に帰つた。
他方、被告次郎は、昭和二〇年四月ころ戍のアパートから新潟県<以下省略>に疎開し、被告月子と同棲生活を始めたが、被告月子は、被告次郎に妻子があることは知りながら、両者間には、昭和二一年八月四日「四郎<仮名>」が、昭和二三年六月七日「松子<仮名>」が生れ、戸籍上は、被告次郎と原告との間の子(「四郎」は二男、「松子」は二女)として出生届出をした。
原告は、昭和二三年二月、三郎を伴つて上京し、大田区目黒区などの会社に勤務して生活をたて、この前後、昭和二二年から翌昭和二三年六月までの間三回にわたり、被告月子に対し身を退くように頼んだり、乙野太郎に被告次郎とのとりなしを懇願したが、結局のところ、被告次郎との関係を旧に復することができず、これに対し、被告次郎は、昭和二六年一〇月、東京家庭裁判所に離婚調停を申し立てたが、翌昭和二七年三月不調に終り、更に、昭和三四年三月、東京地方裁判所に離婚の訴を提起したが、昭和三八年五月、右訴を取り下げた。
被告次郎が被告月子との同棲を考え始めたころより後、別居中の原告に対し執拗に離婚を求め、離婚調停を申し立て、離婚の訴を提起したことを弁論の全趣旨と総合すると、同人が右婚姻届出を有効なものとし、原告との間に有効な夫婦関係が成立していると考えていたものと認めるのが相当である。
二以上の認定に反する原告ならびに被告ら各本人の供述部分は採ることができず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。
三一般に男女の当事者間において、夫婦として婚姻関係を成立させる合意が成立し、両当事者が実質的夫婦共同生活を継続し、その間、当事者の一方が他方の当事者に対し屡々婚姻届をするよう申し出るなど婚姻の届出意思を持ち続けている場合において、何らかの理由に基づいて、他方の当事者の明確な届出意思に基づくことなしに事実上婚姻届がされて形式上も両当事者間に夫婦としての外形が整えられ、他方の当事者が右婚姻届を追認したときは、両当事者間において婚姻関係が右届出の時に遡つて有効に成立したものと認めるべきである。
これを本件についてみるに、前記認定のとおり、原告および被告次郎は、夫婦となる合意のもとにその旨披露し、以後、実質的夫婦共同生活を継続し、その間、原告は、被告次郎に対し屡々婚姻の届出を求めて婚姻の届出意思を持ち続けていたが、被告次郎は、後に、母親なつがなした婚姻届出を追認したのであるから、原告および被告次郎の婚姻関係は、右婚姻届の時に遡つて有効に成立したものというべきである。
四よつて、右婚姻の無効確認を求める反訴原告乙野次郎の反訴請求は理由がない。
五次に、原告および被告次郎の協議離婚の効力について検討する。
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
1 被告次郎は原告を郷里に疎開させ別居以来、原告に対し、幾度となく、離婚の意思を示しまたは離婚の同意を求め、更に離婚調停を申し立てたり、離婚の訴を提起したりしたが、遂に原告の明示・黙示の同意を得られなかつた。そこで、被告次郎は、昭和四七年一〇月二三日、原告に無断で、東京都品川区長に原告および被告次郎の協議離婚届出をし、次いで、同年一一月二四日同区長に被告月子との婚姻届出に及んだ。
2 原告は、昭和四八年二月一四日、大田区役所税務経理部から納税申告書を送付された際の宛名が旧姓の甲野となつていたことから、初めて、右事実を知り、直ちに昭和四八年二月二四日、協議離婚無効確認ならびに被告らの婚姻取消の調停を申し立てた。当時、原告には、協議離婚の意思がなく、届出の意思もなかつたのである。
六右五の認定事実によれば、昭和四七年一〇月二三日東京都品川区長宛届出による原告と被告次郎との協議離婚は無効という他はない。
七そこで、進んで無効確認の利益について審案するに、以上に認定の全事実によれば、
1 原告および被告次郎は、約三一年の長期にわたり別居生活を続け、物心両面にわたり婚姻の実なく、加うるに被告次郎、月子間に事実上の婚姻の実を生じ、原告と被告次郎は相互の間に夫婦共同生活関係を完全に喪失し、双方ともにこれを回復し且つ再継続する意思を欠いており、原告において、被告次郎による虚偽の協議離婚届出を追認する意思が全くない。なお、<証拠>によれば原告が被告次郎の提起した前記訴訟係属中に、自己の訴訟代理人弁護士に対し、「三郎が成人した暁には、然るべく返事をしましよう」と意向を洩らしたことはあるが、追認の趣旨ではないことが認められる。<証拠>中には、原告が、条件によつては被告次郎との夫婦共同生活を回復する意思がある旨の供述部分があるが、弁論の全趣旨に照らして右供述部分は、にわかに以上の認定を左右しない。原告が前記調停を申し立て、直ちに訴訟に踏み切らなかつたことも、弁論の全趣旨に照らして、被告次郎の虚偽の協議離婚届出を一応追認した上でのこととは認められない。
2 しかしながら、事茲に到つたについての有責性は、終始被告次郎に在るものといわなければならないのであつて、しかも、<証拠>によれば、原告は、被告次郎によつて妻としての尊厳を踏みにじられ、痛めつけられ、実質上の婚姻関係を剥奪された上、婚姻の実がないことを理由に、虚偽の協議離婚届出によつて被告月子との事実上の婚姻を正当化されることは、女性の尊厳のためにもとうていゆるしがたく、兎にも角にも、原告と被告次郎との間の婚姻が認められ、虚偽の協議離婚が無効であることが確認され、被告乙野次郎と被告月子との間の重婚が明らかに認められることを絶対に要請し、然る上で又の処置を考慮しようという考えでいることが認められるのであつて、右認定を覆えすことのできる証拠はない。そして、原告の右の被害法益と被害感情と要請とは、個人の尊厳、両性の本質的平等の上からこれを正当に評価保護すべきであつて、1の認定事実も、この評価を左右することはできない。
また、時として原告に狂乱の言動があつたとしても、帰責の所在を考えれば、以上の認定を左右するものではない。
3 よつて、原告には、本件協議離婚の無効確認の利益があるものというべきである。
八そうであつてみれば、本件協議離婚の無効確認を求める原告の本訴請求は理由がある。
九そして、前叙三の説示のとおり、原告と被告次郎との婚姻が有効であり、右八の判断のとおり両者の協議離婚が無効である以上は、前に五の1において認定した被告乙野次郎と被告月子の婚姻は重婚であつて、民法七三二条、七四三条、七四四条二項によつて、取消されるべきものである。
よつて、原告の被告らの婚姻の取消を求める本訴請求は理由がある。
一〇以上の次第で、原告の本訴請求はいずれもこれを認容すべく、反訴原告乙野次郎の反訴請求はこれを棄却すべきものであるので、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用し、主文のとおり判決する。 (立岡安正)